2023年5月13日(土) 神戸新聞 松方ホール

上野真・田村響 デュオリサイタル・イン・神戸

 

 

 

*  *  プログラム 解説  *  *

 

 

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (1756-1791) 作曲

2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448

 

 墺ザルツブルグに生まれたモーツァルトは、幼少期から父レオポルドに連れられヨーロッパ各地を巡業するなどして天才の名をほしいままにしました。まだ幼い彼の演奏を偶然聴いたゲーテは、ラファエロやシェイクスピアに匹敵する才能だと思ったと回想しています。単一メロディーの〈和声音楽〉がもてはやされた時代でしたが、モーツァルトは旅の傍ら、各地で伝統的な〈多声音楽〉の作曲技法を学び、その技術は後に彼の創作の揺るぎない土台となりました。特にJ.S.バッハやヘンデルなどを熱心に研究し、影響を受けたとされます。また、親子ほど歳の離れたハイドンへは「親友ハイドン!」と独特な言い回しで敬意を表しました。

 「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころから、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」

 

 2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.4481781年にウィーンで作曲され、モーツァルトとヨーゼファ・バルバラ・アウエルンハンマーにより初演されました。アウエルンハンマーは女流ピアニストで、モーツァルトの優秀な弟子の一人でした。

曲は3つの楽章から成ります。

1楽章 Allegro con spirito ソナタ形式。冒頭は期待に満ちた4オクターブの主和音から始まるユニゾン。当時モーツァルトが所有していたアントン・ワルター製作の楽器は5オクターブしか持っておらず、楽器のほぼ全音域を同時に響かせる大胆で効果的な手法です。交響曲や協奏曲の華やかさが十二分に想起され、二人の奏者が入れ替わり立ち替わり役割を演じる楽しい魅力に溢れています。

2楽章 Andante ソナタ形式。伸びやかな歌の中に機微を感じる、2台のピアノの親密なやり取りです。

3楽章 Allegro molto ロンド形式。冒頭 [ミレドレラのフレーズが『トルコ行進曲』と似ていると指摘されることもあります。オペラブッファを思わせる快活な大円団です。

 

 

 

ヨハネス・ブラームス (1833-1897) 作曲

ハイドンの主題による変奏曲 op.56b

 

 独ハンブルグで生まれたブラームスは、20歳の時にヴァイオリニストのヨアヒムのすすめでR.シューマンの家を訪ねます。シューマンは『ライプツィヒ音楽新報』での評論活動を自らの重要な仕事の一つと位置付けており、その中で「新しい道」と題したブラームスとその音楽を賞賛する記事を発表しました。

のちに彼の手によって打ち立てられるであろう合唱やオーケストラ作品の偉大な価値を予言したその熱烈な文章は、若いブラームスを世に広める大きな役わりを果たしました。

 世の中が近代化への歩みを進めていった19世紀末にあって、ブラームスは芸術の神性を厳しく問う、極めて宗教的な人間でもありました(それがたとえ非正統派な宗教観だったにせよ)。

 「作曲が最善に運んでいる時、高次の力が自分を通して働いているのを感じる。」「私が求めるのは霊感に満たされることであり、それにより私は、人類を高め益する(永遠に価値のある)音楽を作曲できる...その回答はただちに神から直接私に流れ込み、明確な主題が心の目で見えるのはもちろん、適切な形式の衣をまとっている...和声や管楽法という衣を。」と語っています。

彼はモーツァルトやベートヴェンの身にも同じことが起こっていたと確信していました。ちなみにハイドン(1732-1809)もまた、作曲をすることは礼拝の儀式のようなものであり、作曲を始めるにあたっては「これから神と交わるのだ、それに相応しく装わねばならない」と言って正装した、と言われています。ブラームスは敬愛する音楽家としてハイドンの名もあげています。

 

 【ハイドンの主題による変奏曲 op.56b1873年に作曲され、クララ・シューマンとブラームスによって初演されました。クララは言わずと知れたロベルト・シューマンの妻。初演当時は既に未亡人でした。

 この変奏曲の主題として選ばれたのは、親しみやすい旋律ながらやや変則的なフレーズ構造を持つ “聖アントニウスのコラール” 。当時ハイドン作とされた(実際は別人の作との説が有力)『ディベルティメントHob.Ⅱ.46』の第2楽章に登場するもので、古い讃美歌(コラール)を引用したものと考えられています。主題の最後に現れる「シの連続音」が、以後展開される変奏の重要なモチーフとなっています。このモチーフを確保する四分音符と三連符・八分音符からなるリズムの層が妙なる第1変奏(Andante con moto)。フォルテとピアノの対比が鮮やかな第2変奏(Vivace)。豊かな和声に彩られ、dolceで移ろい流れゆく第3変奏(Con moto)。短調で dolce を引き継いだ第4変奏(Andante)には、低音にモチーフが隠されています。断続的な連続音のモチーフとヘミオラなど複雑なリズムが躍動するスケルツォの第5変奏(Poco presto)。同じくスケルツォでありながら、安定的なパルスに貫かれた第6変奏(Vivace)。第7変奏(Grazioso)の牧歌的なシチリアーノに続くのは、打って変わって不安定な跳躍音程と和声が平衡感覚を失わせる第8変奏(Poco presto)。これら8つの変奏を経て至る終曲は、堂々たるパッサカリア。これ自体が変奏曲の形を成しています。5小節フレーズのオスティナートが合計19回繰り返され、最後に向かって本来の主題と統合されてゆく様は圧巻。

 この変奏曲はブラームスにとっても自信作となったのか、後にオーケストラ版 op.56a が作曲されました。

 

 

 

クロード・ドビュッシー (1862-1918) 作曲

白と黒で

 

 ドビュッシーは仏パリ近郊・サン=ジェルマン=アン=レーで生まれました。この頃のパリ周辺は、普仏戦争やパリ包囲など不穏な社会情勢の只中にありました。父親が革命運動に参加して投獄されたこともあるせいか、ドビュッシーは幼少期の事をあまり語りたがらず、記録が少ないと言われています。9歳の彼に最初にピアノの手解きをしたのは、一説にはショパンの弟子だったと言われるモーテ夫人。「モーテ先生のおかげでショパンのピアニズムに開眼した」とドビュッシー自身が語っており、後に自ら校訂した『ショパン全集』を仏デュラン社から出版しています。10歳でパリ音楽院に入学を許可され、最初はピアニストを目指しましたが望むような成績は残せず、次第に作曲の道を歩み始めました。

 ワーグナーの影響からの脱却を経て、ドビュッシーの作品には教会旋法・全音音階やガムランに代表される東南アジアの音楽、またさまざまな文化(キリスト教・地中海・ケルト・東方趣味)そしてさまざまな分野(象徴主義文学・印象派絵画など)からの影響がそれぞれの内容を伴って色濃く反映され、多面的な作品群を形作っています。「モラルの破壊者」とまで言われるその革新性から、20世紀で最も影響力のある作曲家の一人とされています。

 

【白と黒で】1915年に作曲されました。1914年に勃発した第一次世界大戦は50歳を過ぎたドビュッシーの心身に悪影響を及ぼし、一年ほど作曲活動の停滞を余儀なくさせられました。意欲が回復する中で自身を “フランスの作曲家” と強く意識するようになった彼は、様々な楽器のための6つのソナタを構想します(うち3つは未完)。そして同じ時期、短期間に書かれた最後のピアノ作品が【白と黒で】です。

作曲開始当初の曲名は、スペインの画家・ゴヤの銅版画集『ロス・カプリチョス』(1799)にちなんで「白と黒のカプリス」というものでした。ゴヤは戦争の凄惨な現実を克明に描いたジャーナリストの先駆けともいえる顔を持った画家であり、『ロス・カプリチョス』では理性なき “気まぐれ” がもたらす人間の愚かさを辛辣に風刺しています。ドビュッシーは「第2曲の色合いがあまりに黒のほうに押し流されて、ゴヤの『カプリチョス』と同じくらい悲劇的になってしまったので少し明るくした」と出版者デュランに書き送っています。一方で別の友人への手紙では、あまり深読みはしないで欲しいと断り「これらの作品は、単にピアノの響きから色彩や感覚を引き出したものにすぎない。それはベラスケスの灰色のようなものだ」と記しています。ベラスケスは忖度なく写実に徹した貴族の肖像画を描き、極度に知的な構図の絵画を残した画家でした。

曲は3つの楽章からなり、各曲にはそれぞれ異なる詩人による詩句が掲げられています。

 

1 Avec emportement 

 シェイクスピアの悲劇に基づくグノーのオペラ「ロミオとジュリエット」より
      席から離れず
      踊りにも加わらず
      何がお気に召さぬやら
      小声で呟いておられる

 

 指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーに献呈。ドビュッシーは1913年、クーセヴィツキーとラフマニノフの従兄ジロティの求めに応じてモスクワへ演奏旅行に行っています。

 


2 Lent. Sombre 
 フランソワ・ヴィヨンの「フランスの敵に対して訴えるバラード」より
      公子よ、エオルスの奴隷となるか
      グラウクスの支配する森で
      さもなくば、平和と希望の主となるか。
      フランス王国に悪しき法をもたらすものは
      その徳をもつに値しない


 出版者デュランの甥で戦死した陸軍中尉ジャック・シャルロに献呈。独ルター派の有名なコラール「神はわがやぐら」が引用され、終盤では仏国家「ラ・マルセイエーズ」の断片が彼方に響きます。


3 Scherzando 
 シャルル・ドルレアンの詩より
      冬よ、おまえはいとわしき者……

 作曲家イゴール・ストラヴィンスキーに献呈。ドビュッシーはストラヴィンスキーの出世作『火の鳥』(1910の初演時に彼と出会いました。バレエ・リュスの主催者、ディアギレフの紹介でした。以後、お互いに自作スコアを贈り合い賞賛する仲になります。1912年には、ストラヴィンスキーが携えてきた『春の祭典』の4手連弾用簡易スコアを二人で一緒に弾いたという証言が残っています。

 

 

 

セルゲイ・ラフマニノフ (1873-1943) 作曲

組曲 第2 op.17

 

 今年はラフマニノフ生誕150年、没後80年にあたる年です。平時ならばロシアからも多くの音楽家が来日し、メモリアルコンサートが開催されたはずですが、昨年来、私たちは様々に思わぬ現実を目の当たりにしています。

 

 ラフマニノフは191744歳の時、十月革命の混乱を避けてロシアを離れます。コンサートピアニスト(と指揮者)としての活動を主軸にして生きる決意をし、北欧からアメリカに渡りました。自身と同じく戦争や革命を逃れてアメリカにやって来た音楽家たちと出会い、交流を深めたと言われています。彼がいかに偉大であったかは、多くの生き生きとした証言や記録があり、残された録音からも窺い知ることができます。ほとんどの作品は、アメリカへ渡る1917年よりも前に書かれました。アメリカでなぜ作曲をしないのかと訊かれ「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」と答えたと伝えられています。祖国に帰ることはありませんでした。

 

 露ノヴゴロドで貴族の末裔として生まれたラフマニノフは、早くからピアノの才能に恵まれ、一家の没落など辛い経験もありましたが、ペテルブルグ音楽院を経てモスクワ音楽院で学びました。音楽院では敬愛するチャイコフスキーから才能を認められ、同期にはA.スクリャービンがいました。ピアノの実力は二人がずば抜けて優秀だったと言われています。また、和声法や対位法など厳格な技術を学び、リムスキー=コルサコフの影響で民族音楽を自作に取り入れる事にも熱心でした。音楽家としての基礎をここで徹底的に叩き上げ、ピアノ科と作曲科、双方で金メダルを授与されて卒業しましたが、指揮については学ぶ機会が少なく、もっぱらオペラの現場などでキャリアを積んで名声を獲得していきました。これらの総合的な修行と実践経験が、のちに『合唱交響曲 “鐘” op.35(1913)といったユニークな作品に昇華されることとなります。

 音楽院卒業の数年後に書いた『交響曲第1 op.13』の初演(1897)が失敗に終わり、作曲ができなくなるほどの神経衰弱に陥った話は有名です。復帰に一役かったのが『ピアノ協奏曲第2 op18(1900-1901)の大成功と言われていますが、同時期に作曲されたもう一つの大作が【組曲 第2 op.17】です。

 

 【組曲 第2 op.1719001901年に作曲、ラフマニノフとアレクサンドル・ジロティにより初演されました。ジロティはラフマニノフの従兄で、彼を理解し支え続けたピアニスト/作曲家です。

  自信に満ちた「第1曲 序奏(Alla Marcia)」。2台のピアノが軽快に戯れる「第2曲 ワルツ(Presto)」。ラフマニノフの面目躍如たる甘美な「第3曲 ロマンス(Andantino)」。そして息もつかせぬ奏者の技巧が冴えわたる「終曲 タランテラ(Presto)」。これら4曲から成る壮大なスケールの組曲は、豊潤な和声の響き・馥郁たる叙情・華麗な演奏効果、全てにおいて圧倒的で雄弁。2台のピアノによる豪華絢爛な響きの魅力を存分に聞かせてくれます。

 

 

(記・堤聡子)